その会社が事務所として使いだした当時でも、築5年程度だったと思う。
このビルに移転する前、僕たちはボロ事務所で夏は冷房の効かなさに、冬は隙間風の寒さに悩まされながらも働いていた。
取引先に行くたびに、きれいな建物や清潔なトイレ、快適な暖冷房、エレベーターに憧れたものだ。
しかし少人数の会社らしく、社内はアットホームな環境なので社員の意見はダイレクトに社長へ伝わり、丁度仕事も増えてきて事業拡大を計画した社長は、事務所の移転を考えてくれるようになった。
引越の為に物件を探しだしたのは秋だった。
繁忙期から外れていたお蔭か、探しだしてすぐに希望通りの物件があると連絡があり、社長自ら物件の下見にいったそうだ。
紹介された物件は、事業拡大をするにしては少し狭いものの、建物の新しさと利便性の高さは理想通りだった。
社長に不動産屋が提示した値段は相場通りで、予算の範囲内でもあったので契約をすることにして話を進めたらしい。
物件について詳しい話を聞いていても、不審な所はほとんどなかった。
一点だけ気になる事があるとしたら、以前そのテナントに入っていた人たちの事を不動産屋が愚痴のように漏らした事くらいだったらしい。
前にテナントで入っていた企業は、突然逃げるようにテナント契約の解除を求め、出て行ったらしいのだ。
移転の際も、引越の荷物は本当に最小限としか思えず、移転作業もかなり雑だったのだとか。
その後の対応に不動産屋は少々手間がかかったらしく、契約はほぼ確定して口が軽くなっていたのか、よくある苦労話として笑いながら社長に話していたそうだ。
その話に少し興味を持った社長が、実は問題のある物件なのではないかと尋ねると、不動産屋は慣れた様子で否定をしたらしい。
この物件にまつわる不審な話もないし、念の為にテナントが空いた時にお祓いも済ませてあるとのことだった。
オカルトには一切興味のない社長の事だから、事故物件だったら値切ってやるつもりだったようだが、物件自体は既に気に入っていたためすぐ事務所の移転を決めてきた。
小さい会社だったので年明けには事務所を移転する準備をはじめ、繁忙期になる前には念願の新しい事務所に移転を終えることができた。
キレイな設備はもちろん、アクセスが良くなったことで通勤時間も減って、僕たち社員は快適に仕事が出来る事を喜んでいた。
ところが春頃になると僕の向かい側の席、窓際で働いていた先輩の様子が少しずつおかしくなっていった。
そのビルは12階建てで、僕たちはその7階に事務所を構えていた。
事務所の窓はかなり大きめで、窓際は日当たりがとてもよく、ポカポカとして眠気を誘われる。
だから最初は先輩が居眠りをしていて、体がビクッとなるあの現象に見舞われているだけだと思っていた。
しかしどう見ても先輩は居眠りをしている様子はなく、何よりその後は決まって窓から下を眺めるという奇行をしていた。
僕が先輩の行動に疑問を持ち、その謎の動きが天気のいい日にしか起こらない事に気付く頃には、先輩の『ビクッ』はかなりの頻度になっていた。
移転して最初の秋ごろになると、秋晴れの天気のいい日が続いていた。
その頃には、先輩は毎日のようになにか外を伺うようにきょろきょろするようになり、出来る男として社長に頼られていたはずが、ミスも目立つようになり頬や体が痩せてしまっていた。
社内でも問題視する声が挙がっていたので、仕事でお世話になっていた僕が社長とその先輩を飲みに誘い、事情を聴いてみる事になった。
先輩が言うには、天気のいい日中になると、窓に飛び降りていく小さな人間が見えるらしいのだ。
最初は、虫か鳥が飛んでいるのだと思ったそうだ。
しかし何度が見かけると人間の形をしていて、その落ちていく人間は先輩が見つけるたびに大きくなっていくそうだ。
夏頃には落ちていく人間の服装や性別がわかるようになり、最近では表情までわかるらしい。
なぜかその男は天気のいい日の昼間にだけ落ちてきて、その時間も決まっておらず、ハッキリ見えているのに顔の部分だけが思い出せない、というのが先輩の話だった。
先輩の『ビクッ』は落ちていく男を見つけた時の反応で、飛び降りた男の行方を探す為に、つい窓から下を見てしまっていたそうだ。
あまりにも現実離れした話ではあったが、先輩の憔悴しきった様子と、以前ここを事務所として使っていた会社が不自然な契約解除をしたという話を聞いていた社長は、その話をすぐ信じた。
有能な社員を失うわけにはいかないと判断した社長により、その後すぐまた事務所を移転することになったので、先輩が見ていた男が何だったのかは今でもわからない。
そのビルには自殺した人がいるわけでもなく、その先輩以外に男の姿を見たという人もいない。
事務所を移転したことで、幸いにも先輩は本来の調子を取り戻して元気になった。
今でもその男は、天気が良い日になるとあのビルから飛び降りているのだろうか…。